上記著作より、本文書き出し1ページを引用
春
一
このところ一週間以上も私はペンを放りっぱなしにしていた。まる七日間というもの、私はなにも、それこそ手紙一本書かなかったのだ。
一、二、回病気にやられたときはともかく、それ以外にはこんなことは自分の生涯では今までにまだ一度もなかったことである。
生涯では、といったが、まさしくそれは汗水垂らして必死に生きてゆかなければならなかった生涯であった。
人生というものはのびのびと生きんがために生きてこそ人生といえるものであろうが、
自分の今までの生涯はそんなものではなく、絶えざる心配にこづきまわされ通してきた生活であった。
本来ならば、金を 稼 ぐということは、目的に対する手段であってこそしかるべきものなのだ。
だが、この三十年以上というもの---私は十六歳のとき、すでに自活しなければならなかった---私は金を稼ぐことをあたかも目的そのもののように考えて生きてこなければならなかったのである。
私の古いペン軸がさぞ私を恨んでいることだろうと思う。感心するくらいこのペン軸は私に仕えてくれたのではなかったか。
それなのに、どうして私は、自分が幸福な境遇にいるからといって、
それが 塵 まみれになっているのを捨ててかえりみないのであろうか。
来る日も来る日も私が指にはさんで使い古したその同じペン軸ではないか。
それも随分長い間---そうだ、いったいなん年になるのであろうか。少なくとも二十年にはなろう。
私はトトナム・コート・ロードのある店でそれを買ったのを今も 憶 えている。
そういえば、その日には確か文鎮も買ったはずだ。