上記著作より、本文書き出し1ページを引用
そもそも天下の大勢、分かれて久しくなれば必ず合一し、合一久しくなれば必ずまた分かれるのが常である。
周 の末、中国は七の国々に分れて争ったが、
みな 秦 に合併された。
秦の亡びたのち、 楚 と 漢 とが分かれて争ったが、
またも併せられて 漢 となった。
漢朝は、 高祖 が 白蛇 を切りすてて旗を揚げたのに始まり、ついに天下を一統した。
のち 光武 皇帝の中興より、
つづいて 献 帝まで伝わったが、ここに分かれて三国となった。
その乱れのもとを 推 したずねてみるに、
まずは 桓 ・ 霊 二帝のときに始まったといってよいであろう。
桓帝はただしき党人を追放にして、 宦官 らのことばを信用しきっていた。
桓帝かくれて、霊帝が位に 即 きたもうや、
大将軍とう武と 太傳 陳蕃 が、ともどもに輔佐となった。
ときに宦官 曹節 らが権力を 私 し、
とう武と陳蕃はこれを 誅 しようとはかったが、
企てがもれて、かえって命を失い、宦官は、これよりいよいよ無道をきわめるのであった。
建寧 二年(西暦一六九年)四月十五日、
皇帝 、 温徳 殿にいでましたまい、
玉座にのぼられたとき、御殿の片隅より狂風にわかに吹きおこって、
見る見る一ぴきの大青 蛇 、 梁 の上より飛び下り、玉座のいすにわだかまった。
(サイト管理人 注 八行目の人名”とう武”の”とう”該当漢字見当たらず)