エントリーNO.465
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荷風随筆集

解説文(「岩波文庫解説総目録」或いは、表紙より引用)

江戸讃美、戯作者意識、文人的な日常生活。これらはすべて、浮薄な近代化に対する文明批評家荷風の抵抗の顕現に他ならない。 こうした作者の精神の内実をよく伝える随筆のうち、上巻には「日和下駄」を始めとする東京を論じたもの、下巻には実生活に基づく「妾宅」、「小説作法」等を収め、荷風文学の妙味を味わえるよう編集した。

発行
岩波文庫 1986年10月20日 第2刷
編者
野口 冨士男 (のぐち ふじお)  
タイトル
荷風随筆集 (かふうずいひつしゅう) 全2冊  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

    第一  日和下駄
 人並はずれて (せい) が高い上にわたしはいつも 日和下駄(ひよりげた) をはき 蝙蝠傘(こうもりがさ) を持って歩く。 いかに () く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。 これは年中 湿気(しっけ) の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。 変わりやすいは男心と秋の空、それにお (かみ) 御政事(おせいじ) とばかり (きま) ったものではない。 春の花見頃 午前(ひるまえ) の晴天は 午後(ひるすぎ) の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。 梅雨(つゆ) (うち) は申すに及ばず。 土用(どよう) () ればいついかなる時 驟雨沛然(しゅううはいぜん) として (きた) らぬとも (はか) りがたい。 (もっと) もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が (わり) なき (ちぎり) を結ぶよすがとなり、 また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ (ほろ) (うち) 、 しっぽり 何処(どこ) ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。 閑話休題(それはさておき) 日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。 天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を 捏返(こねかえ) 霜解(しもどけ) も何のその。 アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の 大通(おおどおり) 、やたらに (どぶ) の水を () きちらす 泥濘(ぬかるみ) とて一向驚くには及ぶまい。
  (わたし) はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。


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