エントリーNO.434
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マルテの手記

解説文(「岩波文庫解説総目録」或いは、表紙より引用)

ドイツの詩を新しく切り拓いたリルケの特質を最も明快に示す作品である。ここには悲歌の苦悩の頌歌と、 ソネットの生の頌歌が流れている。すなわち彼はこの作品で、「堪えられないほどに増大した苦悩に、形を与えることによって、 その大きな苦悩の量から生みだすことのできる幸福が、いかに高い幸福になり得るか」を示そうとした。

発行
岩波文庫 1984年5月20日 第36刷
著者名
リルケ  
タイトル
マルテの手記 (マルテのしゅき)  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

 九月十一日 トゥリエ街
 こうして人々は生きるためにこの都会へ集まって来るのだが、僕にはそれがここで死ぬためのように考えられる。 僕は外出して来た。そしていくつもの病院を見た。 一人(ひとり) の男がよろめいて倒れるのを見た。 人々がその男のまわりに立って、そのために僕はそのあとを見ずにすんだ。僕はまた (はら) んだ女を見た。 その女は () であたたまった高い壁にそって苦しそうに足を運び、ときどき思い出したように壁へ手をふれてみた。 壁がまだつづいているかを確かめるようであった。壁はまだつづいていた。壁のうしろにはなにがあったろう?地図を開いて見た。産院であった。 よかろう。彼女はそこへ行ってお産をさせてもらえるだろう。----そのための産院である。つぎにサン・ジャク街である。屋根の (まる) い大きな建物がある。 地図によると、ヴァル・ド・グラース陸軍病院であった。ほんとうはこんなことを知らなくてもいいのだが、知っていてもさしつかえはない。 街路に異臭がどこからもただよい始めた。僕にわかったのでは、ヨードフォルムと揚げた 馬鈴薯(ばれいしょ) の油と不安の (にお) いとであった。 夏はどこの町も臭いがちである。


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