エントリーNO.420
岩波文庫を1ページ読書
すみだ川・新橋夜話

解説文(「岩波文庫解説総目録」或いは、表紙より引用)

母を常磐津の師匠に、伯父を俳諧の宗匠に持つ中学生長吉の、いまは芸妓になった幼馴染お糸への恋心を、 詩情豊かに描いた『すみだ川』。また花柳界に遊んだ作者が、この世界の裏面をつぶさに見聞しみずからも味わった痛切な体験を、 それぞれ独立した小篇に仕立ててなった『新橋夜話』のほか、『深川の唄』を加えて1冊とした。
(解説=竹盛天雄)

発行
岩波文庫 1987年10月14日 第2刷
著者名
永井 荷風 (ながい かふう)  
タイトル
すみだ川・新橋夜話 (すみだがわ・しんばしよわ) 他1篇  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

     深川(ふかがわ) の 唄(うた)
    一
  四谷見附(よつやみつけ) から 築地(つきじ) 両国行(りょうごくゆき) の電車に乗った。 別に 何処(どこ) へ行くという 当(あて) もない。 船でも車でも、動いているものに乗って、 身体(からだ) を 揺(ゆす) られるのが、 自分には一種の快感を起させるからで。 これは 紐育(ニューヨーク) の高架鉄道、 巴里(パリ−) の乗合馬車の屋根裏、 セエヌの 河船(かわぶね) なぞで、 何時(いつ) とはなしに妙な習慣になってしまった。
 いい天気である。あたたかい。風も吹かない。十二月も早や二十日過ぎなので、 電車の 馳(は) せ行く 麹町(こうじまち) の大通りには、 松竹(まつたけ) の 注目飾(しめかざ) り、 鬼灯提灯(ほおずきちょうちん) 、 引幕(ひきまく) 、 高張(たかはり) 、 幟(のぼり) や旗のさまざまが、 汚(よご) れた 瓦(かわら) 屋根と、 新築した家の 生々(なまなま) しい木の板とに対照して、 少しの調和もない混乱をば、なお更無残に、三時過ぎの 日光(ひかげ) が斜めに 眩(まぶ) しく 照(てら) している。 調子の合わない広告の楽隊が 彼方此方(かなたこなた) から騒々しく 囃(はや) し立てている。 人通りは随分 烈(はげ) しい。


copyrighit (c) 2011 岩波文庫を1ページ読書