エントリーNO.414
岩波文庫を1ページ読書
トオマス・マン短篇集

解説文(「岩波文庫解説総目録」或いは、表紙より引用)

人間的な苦悩を芸術的情熱の火で浄めてゆくシラーの姿を浮き彫りにした「悩みのひととき」。 精神的には優れたものを持ちながら、どこか生活機能が充分でないため、実生活の上ではみじめなばか踊りをしているにすぎぬ「道化者」。 その他清新な創造意欲の息吹きにみちたマンの初期短篇から17篇を集めた。

発行
岩波文庫 1983年11月20日 第6刷
訳者
実吉 捷郎 (さねよし はやお)  
タイトル
トオマス・マン短篇集 (トオマス・マンたんぺんしゅう)  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

    幻滅
 僕は白状する。あの妙な男の話したことは、僕をまるっきり混乱させてしまったのである。 だからあの晩僕自身が感動した通り、他人に感動してもらえるように、あの男の話を繰り返すことは、僕には今もってできそうもない気がする。 どうもあの話の効果というのは、まったく一面識もない男が、呆れるほど率直に僕に語ってくれた、その率直さのみにかかっているらしい。 ----
 あの見知らぬ男が、サン・マルコの広場で、はじめて僕の目をひいたあの秋の午前から、もう二ヶ月ばかり経っている。 大きな広場には、わずかな人影があちこち動いているだけだったが、 そのゆたかな、童話めいた輪郭と金の装飾とを、心ゆくばかり鮮かに、柔かな薄青い空から浮き出させている、あの華麗な素晴らしい建物の前では、 かすかな海風の中に、旗がいくつもひるがえっていた。 正面の入口の 真前(まんまえ) には、 玉蜀黍を () いている一人の少女のまわりに、おびただしい鳩の一群が集っていて、 同時に新しいのが四方からどんどん飛びつどって来る----それはたとえようもなく明るい晴れがましい美しさの眺めであった。
 その時僕はあの男に出会ったのである。こうやって書いているうちにも、あの男の姿は 髣髴(ほうふつ) として眼の前にある。 (たけ) は並よりも低いくらいで、足早に背中をまるめて、うしろに廻した両手でステッキを持ちながら歩く。


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