エントリーNO.353
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闇の奥

解説文(「岩波文庫解説総目録」或いは、表紙より引用)

アフリカ奥地の貿易会社出張所にやってきた船乗りマーロウが耳にしたのは、 最奥部の出張所をあずかる腕ききの象牙採取人クルツの噂だった。 折しも音信を絶ったクルツの救出に向かうマーロウ一行の前に、 死と闇の恐怖を秘めた原始の大密林がおおいかぶさる。 ポーランド生まれのイギリス作家コンラッド(1857-1924)の代表作。

発行
岩波文庫 1992年6月15日 第35刷
著者名
 コンラッド  
タイトル
闇の奥 (やみのおく)  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

 帆布一つ動かない、帆走 遊覧船(ヨール) ネリー号は、 ゆっくり流れのままに揺れながら、錨をおろしていた。潮は上げ潮になり、風はほとんど凪ぎだった。 河を下るというのであれば、じっとこのまま潮の変りを待っているよりほかなかった。
 眼の前は、 (はて) しないテムズ河の水路が開けて、 はるばる海の方まで展がっていた。遥かの沖合は、海と空とがどこともなく一つに溶け合い、白々と光る光の中を、潮に乗って遡ってくる河船の鋭く尖った三角帆が、 まるで動かないもののように群れ合って、ワニス塗りの斜桁が陽の光をキラキラと照り返している。 坦々と遠く、海に向かって消えている陸地一帯の空には、薄靄が低く立ちこめていた。 グレイヴゼンドあたりからは、空気さえ薄濁って、さらに遠くその背後は、この世界最大の大都市を蔽う暗鬱な雲行きになって、低く重たげに垂れこめていた。
 会社の「重役」は、われわれの船長でもあり、主人役でもあった。舳に立って、じっと海の方を見つめている彼の後姿を、われわれ四人は親しみをこめた眼差しで眺めていた。 この河で生きる人々の中にも、およそ彼くらい見るからに船乗りらしい人間はいまい。 まるで水先案内人でも見るようだった。水先案内人といえば、船乗りたちの信頼を一身に握っている人間だ。 彼の職場が、あの白く光る河口にはなくて、かえってあの背後の暗澹たる雲の下にあるとは、ちょっと想像もつかない取合せだった。


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