エントリーNO.280
岩波文庫を1ページ読書
パール・バック

解説文(「岩波文庫解説総目録」より引用)

苦しい生活のなか、ただ一つ 王龍(ワンルン) を支えていたもの----大地。 土を愛し土に生きる中国の民衆の姿を、一代で大地主に駆け上がった王龍とその一家を通して描きだす三部作。 パール・バック(1892-1973)は第一部「大地」によりピューリッツァー賞を受けた。(全四冊)

発行
岩波文庫 1997年2月17日 第1刷
著者名
パール・バック  
タイトル
大地 (だいち) 全4冊  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

  第一部  大地
 1
  王龍(ワンルン) が結婚する日だった。 まわりに (とばり) を垂らした暗い寝台の上で目をさましたとき、 彼にはなぜ今日の夜明けはいつもとちがう感じがするのか、はじめはわからなかった。 家のなかは静まりかえっている。ただ、あいだの一部屋をへだてて、向かいの老父の部屋からあえぐようなかすかな (せき) が聞こえてくるばかりだ。 毎朝きまってさいしょに聞こえてくるのは、この老人の咳だった。 いつもの王龍なら、これが聞こえてもまだ寝ている。 やがてそれがだんだんに近づいてきて、父の部屋の木の 蝶番(ちょうつがい) でとめた扉がきしむ音が聞こえてから、 やっと起き出すのだった。
 しかし、今朝はそれまで待ってはいなかった。彼はとび起きて寝台のまわりの張を引きあけた。 赤みがかった薄暗い夜明けで、裂けた紙が風にはためいている四角い小さな窓の穴からちらりと見えた空は青銅色だった。 彼はその穴に近づくと紙を破り棄てた。
 「もう春だ、こんなものはいらない」彼はつぶやいた。
 今日は家がこざっぱりしていて欲しい、その思いを口に出したのが恥ずかしかった。


copyrighit (c) 2011 岩波文庫を1ページ読書