エントリーNO.254
岩波文庫を1ページ読書
歴史小品

解説文(「岩波文庫解説総目録」より引用)

郭沫若(1892-1978)の活動領域は驚くほど多岐にわたるが、作家としては好んで歴史物を手がけた。 『歴史小品』は、老子・孔子・孟子・始皇帝・司馬遷など中国古代の名だたる人物のエピソードに材を得た8つの短篇からなる。 登場人物のだれもが血と肉をそなえた生ま身の人間として歴史の靄のかなたからよみがえる。

発行
岩波文庫 1994年11月16日 第11刷
著者名
郭 沫若 (かく まつじゃく)  
タイトル
歴史小品 (れきししょうひん)  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

   老子 函谷関に帰る
 真夏の太陽が、雄大な 函谷関(かんこくかん) の上に照りつけている。 大棟(おおむね) の上の巨魚も、関門のアーチにある 双鳳(そうほう) も、 あえいでいるようだ。
 関門の外に、白楊樹が五、六本、厚みのある大きな葉が、ひらひらと白い光を空にきらめかしている。 無数のせみが、精いっぱいの声を出して鳴き立てている。
 どこもかしこも燃えるような大地に、白楊樹の下だけが、 (かげ) を一くぎり残している。

 一本の木の蔭に仰臥しているひとりの老人。 上半身はまる裸である。たきぎのようにやせこけた二本の手が、胸の上に組み合わされている。 頭の乱れた髪と、口のあたりの乱れたひげとは、この人がもう長いことくしを使っていないことを、しらせている。 二、三匹のはえが時々やって着て、この人の顔にうるさくつきまとう。 そうすると、胸の上の右の手が上にあがって、ゆらゆらとうごく。 もしもこのことがなかったならば、さすらいの乞食が暑さにあたって死んでいるのだ、と人は思ったであろう。
 地面についている耳が、地の底から伝わってくる何かの音を聞きつけたらしい。


copyrighit (c) 2011 岩波文庫を1ページ読書