エントリーNO.242
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物質的恍惚

解説文(「岩波文庫解説総目録」より引用)

「ぼくが望んだのは、生以前の虚無と以後の虚無を内包しているような書物を創り上げることでした」(ル・クレジオ)。 既知と未知の、生成と破壊の、誕生前と死後の円環的合一のなかで成就する裸形の (ポエジー) 「書くこと」(エクリチュール) の始原にして終焉の姿。
(解説=今福龍太)

発行
岩波文庫 2010年5月14日 第1刷
著者名
ル・クレジオ  
タイトル
物質的恍惚 (ぶっしつてきこうこつ)  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

   物質的恍惚
 ぼくが生まれていなかったとき、ぼくがまだぼくの生命の円環を閉じ終えていず、 やがて消しえなくなるものがまだ刻印されはじめていなかったとき。 ぼくが存在するいかなるものにも属していなかったとき、 ぼくが 孕まれて(コ ン シ ュ) さえいず、 考えうるもの(コンスヴァーブル) でもなかったとき、 限りなく微小な精確さの数々から成るあの偶然が作用を開始さえしていなかったとき。 ぼくが過去のものでもなく、現在のものでもなく、とりわけ未来のものではなかったとき。 ぼくが存在していなかったとき。 ぼくが存在することができなかったとき。 眼にもとまらぬ細部、種子の中に混じり合った種子、ほんの些細なことで道から () らされてしまうに足りる単なる可能性だったとき。 ぼくか、それとも他者たち。 男か、女か、それとも馬、それとも (もみ) の木、それとも金色の葡萄状球菌。 それが無でさえなかった----なぜならぼくは何ものかの否定ではなかったのだから----とき、一つの不在でもなく、一つの想像でもなかったとき。


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