エントリーNO.208
岩波文庫を1ページ読書
岡本綺堂随筆集

解説文(「岩波文庫解説総目録」より引用)

『半七捕物帳』の岡本綺堂(1872-1939)は、明治5年に東京・芝高輪に生まれた。 父は元御家人では母は武家奉公をした町娘。時代は明治から大正。 江戸の風情の残る東京の町と庶民の日常生活、旅の先々で出会った人々、自作の裏話----穏やかな人柄と豊かな学殖を思わせる、 情感あふれる随筆集。著者はいい時代に生まれたらしい。

発行
岩波文庫 2007年10月16日 第1刷
編者
千葉 俊二 (ちば しゅんじ)  
タイトル
岡本綺堂随筆集 (おかもときどうずいひつしゅう)  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

 今日もまた無数の子猫の毛を吹いたような細かい雨が、礒部の若葉を音もなしに 湿() らしている。 家々の湯の (けむり) も低く迷っている。 疲れた人のような五月の空は、時々に薄く眼をあいて夏らしい光を (かす) かに (もら) すかと思うと、 またすぐに () むそうにどんよりと暗くなる。 (にわとり) が勇ましく歌っても、雀がやかましく (さえず) っても、 上州の空は容易に夢から醒めそうもない。
 「どうも困ったお天気でございます。」
 人の顔さえ見れば () ずこういうのが 此頃(このごろ) 挨拶(あいさつ) になってしまった。 廊下(ろうか) や風呂場で出逢う逗留の客も、三度の膳を運んで来る旅館の女中たちも、 毎日この同じ挨拶を繰り返している。 私も無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、ここで毎日原稿紙にペンを走らせている私は、 (ほか) の湯治客ほどに雨の日のつれづれに (くるし) まないのであるが、 それでも人の 口真似(くちまね) をして「どうも困ります」などといっていた。


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