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エントリーNO.13
岩波文庫を1ページ読書

           解説文(「岩波文庫解説総目録」より引用)
寺田寅彦(1878-1935)の随筆は芸術感覚と科学精神との稀有な結合から生まれ、 それらがみごとな調和をたもっている。しかも主題が人生であれ自然であれ、 その語りくちからはいつも温い人間味が伝わって来る。 20代から最晩年の50代後半まで書きつがれた随筆から珠玉の110篇余を選んでこれを5巻に編んだ。

発行
 岩波文庫 2008年2月5日 第93刷
著者名
 寺田 寅彦 (てらだ とらひこ)
タイトル
 寺田寅彦随筆集 (てらだとらひこずいひつしゅう)  全5冊
                    上記著作より、本文書き出し1ページを引用

     どんぐり
 もう何年前になるか思い出せぬが日は覚えている。暮れもおし詰まった二十六日の晩、 妻は下女を連れて 下谷(したや) 摩利支天(まりしてん) の縁日へ出かけた。 十時過ぎに帰って来て、 (たもと) からおみやげの 金鍔(きんつば) と焼き (ぐり) を出して余のノートを読んでいる机のすみへそっとのせて、 便所へはいったがやがて出て来て青い顔をして机のそばへすわると同時に急に (せき) をして血を吐いた。 驚いたのは当人ばかりではない、その時余の顔に全く血のけがなくなったのを見て、 いっそう気を落としたとこれはあとで話した。
 あくる日下女が薬取りから帰ると急に暇をくれと言い出した。 このへんは物騒で、お使いに出るときっといやないたずらをされますので、 どうも恐ろしくて不気味で勤まりませぬと妙な事を言う。 しかし見るとおりの病人をかかえて今急におまえに帰られては途方にくれる。 せめて代わりの人のあるまで辛抱してくれと、よしやまだ一介の書生にしろ、 とにかく一家の主人が泣かぬばかりに頼んだので、その日はどうやら思い止まったらしかったが、 翌日は国元の親が大病とかいうわけでとうとう帰ってしまう。 掛け取りに来た車屋のばあさんに頼んで、なんでもよいからと 桂庵(けいあん) から連れて来てもらったのが 美代(みよ) という女であった。 仕合せとこれが気立てのやさしい正直もので、もっとも少しぼんやりしていて、 たぬきは人に化けるものだというような事を信じていたが、とにかく忠実に病人の看護もし、 しかられても腹も立てず、そして時にしくじりもやった。

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