上記著作より、本文書き出し1ページを引用
どんぐり
もう何年前になるか思い出せぬが日は覚えている。暮れもおし詰まった二十六日の晩、
妻は下女を連れて 下谷 摩利支天 の縁日へ出かけた。
十時過ぎに帰って来て、 袂 からおみやげの 金鍔 と焼き 栗 を出して余のノートを読んでいる机のすみへそっとのせて、
便所へはいったがやがて出て来て青い顔をして机のそばへすわると同時に急に 咳 をして血を吐いた。
驚いたのは当人ばかりではない、その時余の顔に全く血のけがなくなったのを見て、
いっそう気を落としたとこれはあとで話した。
あくる日下女が薬取りから帰ると急に暇をくれと言い出した。
このへんは物騒で、お使いに出るときっといやないたずらをされますので、
どうも恐ろしくて不気味で勤まりませぬと妙な事を言う。
しかし見るとおりの病人をかかえて今急におまえに帰られては途方にくれる。
せめて代わりの人のあるまで辛抱してくれと、よしやまだ一介の書生にしろ、
とにかく一家の主人が泣かぬばかりに頼んだので、その日はどうやら思い止まったらしかったが、
翌日は国元の親が大病とかいうわけでとうとう帰ってしまう。
掛け取りに来た車屋のばあさんに頼んで、なんでもよいからと 桂庵 から連れて来てもらったのが 美代 という女であった。
仕合せとこれが気立てのやさしい正直もので、もっとも少しぼんやりしていて、
たぬきは人に化けるものだというような事を信じていたが、とにかく忠実に病人の看護もし、
しかられても腹も立てず、そして時にしくじりもやった。