エントリーNO.112
岩波文庫を1ページ読書

解説文(「岩波文庫解説総目録」より引用)

現役の作家のなかにも熱狂的なファンの少なくない、鬼才、久生十蘭(1902-57)の精粋を、 おもに戦後に発表された短篇から厳選。 世界短編小説コンクールで第一席を獲得した「母子像」、幻想性豊かな「黄泉から」、戦争の記憶が鮮明な「蝶の絵」「復活祭」など、 巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す全15篇。

発行
岩波文庫 2010年3月15日 第4刷
編者
川崎 賢子 (かわさき けんこ)  
タイトル
久生十蘭短篇選 (ひさおじゅうらんたんぺんせん)  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

   黄泉(よみ) から
  一
 「九時二十分、、、」
 新橋のホームで、 魚返(おがえり) 光太郎が腕時計を見ながらつぶやいた。
 きょうはいそがしい日だった。十時にセザンヌの「静物」を見にくる客が二組。 十一時には、、、夫人が名匠ルシアン・グレエヴの 首飾(ペンダント) のコレクトを持ってくることになっている。 午後二時には、、、家の家具の売立。四時には、、、詩も音楽もわかり、美術雑誌から美術批評の寄稿を依頼されたりする光太郎のような一流の 仲買人(アジャン) にとって、 戦争が勝てば勝ったように、負ければまた負けたように、商談と商機にことを欠くことはない。
 こんどの欧州最後の引揚げには光太郎はうまくやった。 みな危険な金剛石を買い漁って、益もない物換えにうき身をやつしているとき、光太郎はモネ、ルノアール、ルッソオ、フラゴナール、三つのヴェルメェルの作品を含むすばらしいコレクションを () りおとし、持っていた金を安全に始末してしまった。
(サイト管理人 注 ”せりおとし”の”せり”の旧字見当たらず新字に。)


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