エントリーNO.106
岩波文庫を1ページ読書

解説文(「岩波文庫解説総目録」より引用)

銀座のカフェーの女給君江は、容貌は十人並みだが物言うとき、「瓢の種のような歯の間から、舌の先を動かすのが一際愛くるしい」女性である。 この、淫蕩だが逞しい生活力のある主人公に、パトロンの通俗作家清岡をはじめ彼女を取巻く男性の浅薄な生き方を対比させて、荷風独特の文明批評をのぞかせている。解説=中村真一郎

発行
岩波文庫 2009年7月22日 第27刷
著者名
永井 荷風 (ながい かふう)  
タイトル
つゆのあとさき   
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

      一
  女給(じょきゅう) 君江(きみえ) は午後三時からその日は銀座通のカッフェーへ出ればよいので、 (いち) 谷本村町(やほんむらちょう) の貸間からぶらぶら 堀端(ほりばた) を歩み 見附外(みつけそと) から乗った乗合自動車を 日比谷(ひびや) で下りた。 そして鉄道線路のガードを前にして、 場末の町へでも行ったような飲食店の旗ばかりが目につく 横町(よこちょう) へ曲り、 貸事務所の 硝子窓(がらすまど) 周易(しゅうえき) 判断 金亀堂(きんきどう) という金文字を掲げた 売卜者(うらないしゃ) をたずねた。  去年の暮あたりから、君江は再三気味のわるい事に 出遭(であ) っていたからである。 同じカッフェーの女給二、三人と 歌舞伎座(かぶきざ) へ行った帰り、 シールのコートから (そろ) いの大島の羽織と 小袖(こそで) から 長襦袢(ながじゅばん) まで通して (たもと) の先を切られたのが始まりで、 その次には 真珠入(しんじゅい) 本鼈甲(ほんべっこう) のさし (ぐし) をどこで抜かれたのか、知らぬ間に抜かれていたことがある。 スリの 仕業(しわざ) だと思えばそれまでの事であるが、またどうやら 意趣(いしゅ) ある者の 悪戯(いたずら) ではないかという気がしたのは、 その () 猫の子の死んだのが貸間の押入れに投入れてあった事である。 君江はこの年月随分みだらな生活はして来たものの、しかしそれほど人から (うらみ) を受けるような悪いことをした覚えは、どう考えて見てもない。
  (サイト管理者 注 「スリ」該当漢字見当たらず。)


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