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エントリーNO.49
岩波文庫を1ページ読書

           解説文(「岩波文庫解説総目録」より引用)
若き代助は義侠心から友人平岡に愛をする三千代をゆずり自ら斡旋して2人を結びあわせたが、 それは「自然」にもとる行為だった。 それから3年、ついに代助は三千代との愛をつらぬこうと決意する。 「自然」にはかなうが、しかし人の掟にそむくこの愛に生きることは二人が社会から追い放たれることを意味した。
  解説・注=吉田てるお

発行
 岩波文庫 2008年8月25日 第90刷
著者名
 夏目 漱石 (なつめ そうせき)
タイトル
 それから
                    上記著作より、本文書き出し1ページを引用

 誰か (あわ) ただしく門前を () けて行く足音がした時、 代助(だいすけ) の頭の中には、 大きな 俎下駄(まないたげた*) (くう) から、ぶら下がっていた。 けれども、その俎下駄は、足音の 遠退(とおの) くに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。 そうして () () めた。
 枕元を見ると、 八重(やえ) 椿(つばき) が一輪畳の上に落ちている。代助は 昨夕(ゆうべ) 床の中で (たし) かにこの花の落ちる音を聞いた。 彼の耳には、それが 護謨毬(ごむまり) を天井裏から投げ付けたほどに響いた。 () () けて、 四隣(あたり) が静かな 所為(せい) かとも思ったが、 念のため、右の手を心臓の上に載せて、 (あばら) のはずれに正しく (あた) る血の音を確かめながら (ねむり) に就いた。
 ぼんやりして、 少時(しばらく) 、赤ん坊の頭ほどもある大きな花の色を見つめていた彼は、 急に思い出したように () ながら胸の上に手を当てて、 また心臓の鼓動を (けん) し始めた。 寝ながら胸の脈を聞いて見るのは彼の近来の癖になっている。 動悸(どうき) は相変わらず落ち付いて (たしか) に打っていた。 彼は胸に手を当てたまま、この鼓動の (もと) に、温かい (くれない) の血潮の (ゆる) く流れる様を想像して見た。 これが命であると考えた。自分は今流れる命を (てのひら) (おさ) えているんだと考えた。 それから、この掌に (こた) える、時計の針に似た (ひびき) は、 自分を死に (いざな) う警鐘のようなものであると考えた。 この警鐘を聞くことなしに生きていられたなら、----血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、 如何(いか) に自分は気楽だろう。

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