エントリーNO.372
岩波文庫を1ページ読書
人間の絆

解説文(「岩波文庫解説総目録」或いは、表紙より引用)

自分は読者を楽しませる一介のストーリー・テラーだと言って憚らなかったモーム(1874-1965)が、 唯一自分自身のために書いた精神的半自伝小説。 不自由な足ゆえに劣等感に苛まれ続けるフィリップに、 自らの精神形成を託して描いた人生遍歴の物語。(全3冊)

発行
岩波文庫 2001年10月16日 第1刷
著者名
 モーム  
タイトル
人間の絆 (にんげんのきずな) 全3冊  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

    1
 どんよりと曇った朝で、雲が重くたれこめ、寒々として今にも雪になりそうだった。 乳母が子供部屋に入って来て窓のカーテンを開けた。 向かいの 柱廊玄関(ボ ル チ コ) のある 漆喰(しっくい) 壁の邸宅にさっと目をやると、 すぐ子供のベッドの所にやって来た。
 「さあ、起きなさいな」
そう言いながら上掛をめくり、子供を抱き上げて階下に連れて行った。子供はまだ夢うつつだった。
 「ママがお呼びですよ」
 乳母は階下の部屋のドアを開き、子供を夫人の寝ているベッドの所に連れて行った。 子供の母は両手を差し出し、子供は母に寄り添った。 なぜ起されたのか尋ねない。母は子供の目にキスし、か細い手で白いフランネルのパジャマの上から子供の温かい体をなぞった。 それからしっかりと抱きしめた。
 「坊や、まだ眠いの?」
 声はとても低くて、もう既に遠方から聞こえてくるようだった。


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