エントリーNO.363
岩波文庫を1ページ読書
ともしび・谷間

解説文(「岩波文庫解説総目録」或いは、表紙より引用)

悲喜こもごもの人生。人間の営みはせせこましくてかなしい。 〈この世のことは何ひとつわかりゃしない!〉という言葉が重い余韻を残す「ともしび」。 〈母なるロシアはでっけえでなあ!〉と語る老人が印象的な中編「谷間」。 他に、「美女」「気まぐれ女」「箱に入った男」「すぐり」「恋について」「僧正」「いいなずけ」を収録。

発行
岩波文庫 2009年10月16日 第1刷
著者名
チェーホフ  
タイトル
ともしび・谷間 (ともしび・たにま)他七篇  
 
上記著作より、本文書き出し1ページを引用

    美女
  一
 わたしはよく覚えているが、まだ中学五年生か六年生のころ、祖父につれられてドン州ボリシャーヤ・クレープカ村からロストフ・ナ・ドヌー市まで行ったことがある。 八月の、うだるような、うんざりするほど退屈な日だった。 暑さと、もうもうたる 砂埃(すなぼこり) をまともに吹きつけてくる乾いた熱風とで、ろくに目も () けていられず、 口の中はからからだった。見るのも話すのも考えるのも 億劫(おっくう) で、寝ぼけまなこの御者、 ウクライナ人のカルポーが、馬に (むち) を当てるはずみにわたしの学生帽をぴしりと打ったときにも、 わたしは苦情も言わず、声さえ立てず、ただ夢うつつから覚めて、ものうげに、おとなしく、 砂塵(さじん) を透かして村でも見えはしないかと遠くを見やっただけだった。 馬に 飼葉(かいば) をやるために、わたしたちはアルメニア人の 大村(おおむら) バフチ・サラッハの、 祖父の知合いの、ゆたかなアルメニア人のところに立ち寄った。


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